電脳登山部リーダーブログ

ING電脳登山部リーダーたちのブログです。
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    山の不可思議体験 第5話 雪道に足跡を残さないパーティー

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      JUGEMテーマ:自然・登山・キャンプ

       

       最近、実は私は高山病体質?なのかと気が付きました。以前から時々おかしかったことはあったのですが、このところ一日目に一気に標高2500メートルを超えると頭痛、嘔気でまともに飯が食えないことが続いています。
       そこで、試しに高地順応してみたらどうかと、先日テント持って八ヶ岳の行者小屋に行き、そこで泊まって翌日赤岳に登ってみました。その日は自宅で用事があり午後には帰宅しなければいけなかったので、まだ薄暗いうちに出発して地蔵尾根を登り赤岳登頂後、文三郎道を下山して2時間30分で戻ってきました。高山病の症状は皆無で、爽快な登山でした。が、これでどうやら不調は高山病が原因であることが立証されてしまったようです。
       しかし今回の登山は、高山病の検証以外にかつて地蔵尾根を下降中に経験した出来事の場所を確認しようという思いもあり、ここを選んだのです。12月下旬、真冬の八ヶ岳で私達を導いてくれた不思議な声を聞いた場所を確かめるために・・・。

       

      第5話 雪道に足跡を残さないパーティー
       私達は12月下旬、冬の八ヶ岳登山では定番の硫黄岳から赤岳までの周回をしようと、赤岳鉱泉で雪の中テントを張りました。当時冬山では「ペミカン」と呼ばれる調理済みの肉や野菜をラードで固めて保存食にしたものを持って行くのが流行っていました。水を張った鍋にこのペミカンを放り込んで温めて油が溶ければ、ルーを使ってカレーやシチュー、味噌で豚汁、醤油でけんちん汁などとして食べる、食材はいつも同じで最後の調味料だけ変えればOKという非常に便利なものなのです。ただラードの高カロリーに、しょうがやにんにくもたっぷり入れてありますから、ルーに香辛料の入ったカレーライスにした時なんぞは、テントの中で食べているともう暑くてたまらず、上半身裸のまま零下10度の吹雪の中に飛び出して行って涼んでから再び戻って食べるという有様で、隣で幕営していた女性のパーティに見られて恥ずかしい思いをしました。
       ちなみに低体温症が進行して瀕死の状態になり、体温を司る視床下部がやられると、脳は体温が上昇したと誤認して身体を冷やそうとするらしいのです。しばしば冬の遭難で、裸で凍って死んでいるのはそれが理由だとされています。つまり「暑い!」と感じて服を脱いでしまうのです。またいわゆる「死に水」も同様の理由で欲しくなるのだと言われています。ということは吹雪の中に裸で飛び出してくるようなヤツは、そろそろ死にそうなかなりヤバい奴と受け取られても仕方ないわけで、当然その女性パーティと言葉をかわすチャンスはありませんでした。
       翌日は雪が降っていましたが風は弱く、これなら行けるだろうと出発しました。稜線に出ると多少の風と濃霧以外、別に問題もなく硫黄岳から横岳と縦走し、最後の赤岳の登りなどは、アイゼンさえキチンと使えるなら、無雪期より全然楽に登ることができました。さすがに赤岳では少々風に当たりましたが、日頃の雪上訓練の成果を発揮して、全く危なげなく赤岳石室(現在の赤岳展望荘)に戻ってきました。そして地蔵尾根の分岐から行者小屋に向かって下山を開始したのです。今回地蔵尾根を登ってみて、私達が当時ルートを失った場所はかなり上部だったことを知りました。当時の印象としては結構降りてからだったと思っていたのですが、地形を思い出して、現地と見比べてみればそうでないことは明白でした。
       あの日は霧が深くて視界がなく、トレールもない中で、夏道を左にそれて、まっすぐ下るリッジの右側を絡むように降りて行き、そのリッジが二つに別れる地点で右に別れた小尾根を越える。そこで最後尾の私は、これはちょっと違う感じだなと立ち止まりました。
       別れた小尾根の間は急峻なルンゼになっていて、先頭のメンバーが少し下降して「これなら行けるよ」と言うので、他のメンバーも下り始めました。私も後ろ髪を引かれる気分だったのですが、小尾根を乗り越して数歩下りました。とその時、今越えたばかりの小尾根の向こうからザワザワという複数の人の声が聞こえました。すぐ前にいたメンバーに、「今人の声がしなかった?」と聞いてみたのですが、答えはノーでした。でも私は先ほどの尾根に戻って周囲を見渡すと、人影は霧の中なのかどこにも見えなかったのですが、対面の少し下方、ポッカリ開いた穴のように霧が晴れているところに鎖が見えました。すぐにメンバーに戻るよう声を掛け、振り向いた時にはもう穴はなくなって元の視界なしに戻っていました。でも方向はわかっていたので、リッジ沿いの私達のトレールを辿って登り返し、斜面を少し横切ってから下って行くと鎖が現れました。これが正しい夏道でした。私達はこの時期まだ積雪がそれほど多くないので、夏道通りが最も安全と考えていましたので、かなり安心しました。
       しかし、下りながらふと気がつくとその夏道には全く足跡がないのです。登り返した時に私達の間違えたトレールはハッキリ残っていましたから、ザワザワと声がするほどの人数のパーティーがついさっき登って行ったなら、トレールが残っていないはずはないのです。私は「足のない人たちのパーティーだったんだね」と理解して、いつも雪道は尻セードで滑り降りていくのですが、今日は簡単に下ってしまうのがもったいないような気持ちになって、噛みしめるような気分で一歩ずつ下山を続けました。声がしたひとときだけ、霧に穴が開いて鎖を見せてくれた、その幸運に感謝しながら。「山では不思議なことがあるんだよ」

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      山の不可思議体験 第4話 山中の路線バス

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        JUGEMテーマ:自然・登山・キャンプ

         

         私が所属していた大学ワンゲル部では、年間に部員全員参加が義務づけられていた主な合宿が5回と、それ以外に卒業生の追い出し山行やクリスマス山行など、学生さんらしい楽しげな山行がいくつかありました。合宿はこれまでも記したように今時の学生さんには全くウケないような山行ばかりでしたが、一年生が入部して初っ端の新人合宿も、この山でこんなに痛い目見る?と思うようなキビシイ山行でした。
         何のことはない群馬県央の赤城山なのですが、1日目は麓近くの当時あった有料道路料金所のところから鍋割山を直登して荒山を登り小沼まで。1年生男子はたいてい25キロ以上のキスリングを背負ってましたので、多くは荒山あたりで足が攣り、小沼までの林道は青息吐息。この林道で夜のキャンプファイアー用の枯れ木を拾うのですが、私も一年生の時は、とても拾う気は起きないほど疲れてました。
         小沼湖畔で幕営して翌日は、赤城神社前からヤブコギして黒檜山と駒ケ岳を結ぶ稜線に出て、ここから学年順に黒檜山頂上まで走ります。上級生があとから追いかけてくるのをかわせる新人はあまり多くはありません。そして黒檜山を下山後は、バス道路を歩いて新坂平の先の登山口から、鈴ヶ岳に向かう稜線に入り、鈴ヶ岳へ。頂上から北へ藪漕ぎして林道に下降し、ここから西の赤城村深山バス停まで下山するというのが二日目のコースです。「赤城山だろ」と舐めてかかると痛い目に会います。結構タフなルートです。そんな赤城山で1年生の終わり頃、私は再び痛い目を見ました。

         

        第4話 山中の路線バス
         3月のはじめ、4年生の卒業を祝う追い出しコンパが、赤城山の大沼北岸に当時あった「自然を敬い、人間関係を深める」ことを理念として創設された地区国立大学共同利用合宿研修施設(いかめしい名前だ!)の最初の施設「赤城山寮」で行われました。貸し切りでドンチャン騒ぎしてただけなので、理念に沿った利用方法だったかは不明です。新人合宿のコースで登り、完全結氷の大沼湖面を赤城颪の元になる強風に向かって、身体を斜めに傾けながら必死でまっすぐ山寮のある北岸に向かったのを覚えています。
         でその翌日、私は同級生と二人で、合宿後半のルート、すなわち鍬柄山から鈴ヶ岳を経て深山へ下山するコースに私はビスケット、彼はチョコレートという貧しい昼食を携えて入りました。そこそこの積雪があり、しかも3月ですからすでに何度か表面は溶けて再び凍ったおかげで、いわゆるモナカ雪になっていました。ヤセ型でヒョロっとした体型の友人はスイスイと雪面を渡って行くのですが、彼より体重が重いにもかかわらず、底面積の小さい登山靴を履いていた私は、やたらと雪を踏みぬいて、足を抜くのに苦労していました。ハッキリ言って相当にクタビレていました。それでも何とか鈴ヶ岳の頂上に着き、さぁあとは下るだけと冬枯れの斜面を木に掴まりながら転げ落ちるように北側の林道に降り立ちました。途中、春の合宿では見なかった、急峻な岩壁の脇を下りました。昨春よりかなり西寄りに降りたようです。「今は葉がないので見えたけど、葉の茂った季節では気づかずに岩壁にでてしまいそのまま滑落するかもね」と心配になりました。事実、しばらく後に鈴ヶ岳で滑落死亡事故があったと聞き、もしかしたらあの岩壁かもしれないと思いました(詳細は不明でした)。
         さぁあとは林道を離れて沢沿いに下る登山道に入ってまっすぐ下ればバス停だ、と既にその分岐よりも下に降りていたことに気づかず出発しました。当然いくら林道を歩いても登山道の分岐は現れません。そのうち道は尾根を越えて隣の沢に入り込んで行く始末。「分岐を見落とした?」と思っても既に登り返す元気もなく、「この林道だってそのうち着くよ」と空腹をかかえながら諦めて歩いていました。
         やがてようやく人里近い雰囲気になって、二人がバス時刻の話をしながら歩いていたその時、私はバスを見ました。ほんの30メートルばかり先を右から左へ、当時の東武バス、青とクリーム色のツートンカラーの車体が横切るのを・・・。思わず「アッ!バスだ!」と叫んでしまいました。素っ頓狂な顔で私を見ていた友人は、やがてゲラゲラと笑い出し、「そんなものあるか!!!」バスが横切っていった場所は近づいて見れば単なる草むらでした。こっちから来て向こうに行ったんだと説明しましたが、当然彼に聞く耳はありません。空腹と疲労の果てに私は幻覚を見たのです。
         それにしても鮮明な映像でした。もしかしたら歩きながら一瞬眠って夢を見たのかもしれません。ともかくないものが見える「山では不思議なことがあるんだよ」

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        山の不可思議体験 第3話 登山道を駆け抜けていく加藤文太郎?

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          JUGEMテーマ:自然・登山・キャンプ

           

           前回紹介した西丸震也さんの本には、横尾の岩小屋(今は標識があるもののよくわからない)に泊まった時、黄昏時に登山道を風のように下山していく正体不明な人影を見た話がでています。同様の話は、槍穂高連峰から上高地に下山する道沿いにある泊まり場のあちこちにあり、いわば都市伝説のようになっているようです。一説には伝説の岳人「加藤文太郎」のオバケという話もあり、「まさかそんなことはね」と思いますが、私もあるテントサイトでそんな影を見たことがあります。

           

          第3話 登山道を駆け抜けていく加藤文太郎?
           学生時代に使っていたテントは、帆布の重たい家型テント、6人用ならフルで10Kg、という代物でした。はじめにグラウンドシートを敷き、テント本体をシートに縛り付け、両サイドのポールを立てて張り綱で固定するとようやく家形にテントが立つ、それなりに練習しないとスムーズに設営ができないものでした。
           ですから、新入生が入部してくるとまず行う「平地合宿」で基本技術としてテント設営を教えるわけです。平地合宿は大学の敷地内にあった林の中で、今や記憶があやふやですが2泊か3泊で行ってました。授業が終わって部員が三々五々集まってくると、それぞれのパーティに別れてテントを設営。そしてテント内で飯を炊いて夕食。夜はパッキングの仕方などの基本的な技術や気象通報を聞きながら天気図を書くなど、今後の合宿で必要なことを教わります。それが終わったらシュラフに入ってテントで就寝。翌朝は朝飯作って、テントを撤収してから授業に出る。これを数日繰り返して必要な技術を習得していくわけです。
           家型テントは今のドーム型テントと違い、棟に高さがあり真ん中は立って歩けますし、両サイドには壁があるので、壁を背にして座れば背筋を伸ばしていられます。背を丸くして座らなければいけない現在のテントに比べると、居住性は圧倒的に家型テントが勝ると私は思います。そしてその中で最もいい席は、テントの一番奥。ポールを背にして入り口を向いて座る席で、頭上も広くて快適でパーティ全員を睥睨できるので、ここはそのパーティの最上級生が座ります。まるで「牢名主」状態です。
           私が入部する前年、ある合宿中、そんなテント内で事件が起こりました。煮炊きはテント内の真ん中で行うのですが、大きな鍋に水を入れてお湯を作ろうとしたら、火をつけた途端に沸騰し始めました。「アレッ!??」「早くない?!」「バカッ、ガソリンだっ!!」その場にいたメンバーは我先にと外に飛び出したのですが、その時1年生だった一人の先輩が、沈着冷静に鍋に蓋をして、バーナーの火を消し、事なきを得たのです。
           この先輩は、翌年私も参加した谷川連峰西ゼンの沢登り中、第二スラブ上部で起きた等身大の落石の真下にいながら、直撃寸前までじっと岩を凝視して、離れて見ていた我々がアッと息を呑んだ瞬間、一歩横に動いてこの落石を避けるという離れ業を演じました。岩が細長いため、どう転がるかわからないので当たるギリギリまでじっくり挙動を見たそうです。第二スラブの上部はかなりの傾斜ですから、慌てて動いたりすれば滑落の危険もあります。すごい先輩だと私は感動しました。
           ちなみにガソリン沸かし事件の際、牢名主状態だった大先輩は、外に飛び出したメンバーのうち、一番遠くまで逃げて岩の裏に隠れていたそうです。本人もどうやって逃げたか記憶がなかったらしいです。白ガソリンは見かけ上、水と区別がつきません。沸かしたりしないように気をつけましょう。
           ということで、9月下旬の秋合宿では、アドバイザー役の先輩もいなかったので、チーフリーダーの私が「牢名主」でした。そのテン場は槍穂高連峰から下山してくる登山者の大多数が通るところで、今夜は合宿最後の夜、指定地の外れにテントを設営してのんびりしていました。そんな「誰そ彼」時、牢名主席の私はテント出入り口の向こうに見える登山道を、ものすごいスピードで上高地に向かって通り過ぎて行くと言うか、まるで流れていくような人影を見ました。急いで外に出て追いかけようと思ったのですが、テント内でヘタに動くと鍋やバーナーをひっくり返すことがあるので、若干時間を食ってしまいました。それでもサンダルをつっかけて全速力で登山道を少し追いかけてみたのですが、もうどこにもそんな人影はありません。「あぁ今のが加藤文太郎のオバケなのか?!」と妙に感動してテントに戻りましたが、もしかしたら生身の人間がそのへんの大木の陰に隠れていたかもしれません。
           でもまぁ「山では不思議なことがあるんだよ」ということで、あるがままに受け入れるのが山における私の信条です。

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          山の不可思議体験 第2話 山のガヤガヤ

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             私の青春時代、読みふけった西丸震哉さんの「山歩き山暮らし」という本があります。私の山登りでは頂上に行くことばかりが目標でなく、ただただ山の中にいることが好きになったのはこの本の影響が大きいと思います。その西丸震哉さんが言い出したらしい「山のガヤガヤ」という現象というか不思議な体験を私も何度かしたことがあります。その中で最も印象的だったお話をひとつ・・・。

             

            第2話  山のガヤガヤ
             学生時代私の所属するワンダーフォーゲル部では、年間活動で男子隊のメインとなる夏合宿は、上信越国境や会越国境、南会津を2週間近くかけて行うヤブコギ縦走でした。キャンパスの違う工学部では東北方面や越後山脈を同様にヤブコギ縦走してました。いずれも今実行しようとする人はまずいない、現代のワンゲル部ではおそらくあり得ない山行でしょう。例えば(カシミール3Dなどの地図ソフトを見ながらたどるとわかりやすいです)、奥只見の田子倉湖を船で渡って取り付く「横山」から稜線伝いに大川猿倉山、村杉岳、丸山岳や高幽山を経て坪入山から会津駒ケ岳(ここまでほぼヤブコギ!)へと縦走するものや、会越国境の六十里越から「毛猛山」を経て未丈ヶ岳(登山道があるのはこの頂上だけ!ヤブから頂上に出てまたヤブに突っ込む)、日向倉山と進み銀山平に下山するという山行がありました。特に後者では一日に500メートルしか進めない日があったそうです。また越後山脈では今や「山ヒルとメジロアブが守る自然」と言われる青里岳、矢筈岳から御神楽岳方面へ続く稜線などを歩いていました。
             そんな中、私達は都合で3年生のチーフリーダーが急に参加できなくなってしまって、2年と1年生のみのパーティーで谷川岳から尾瀬至仏山までの夏合宿に行くことになりました。代替チーフリーダーだった2年生の私は先輩たちに「自分がチーフリーダーでいいんですか」と尋ねたところ、「大丈夫だろう、何度も行っているからテン場も水場もわかっているし、前を女子隊が歩いているくらいだから・・・」ということで、本当にそんなんでいいのと思いながらも、そのまま実行する事になりました。
             当時の上越国境稜線はおそらく、奥利根の沢登りのあと稜線伝いに県境を歩いて、巻機山や本谷山、丹後山などの下界からの登山道が通じている山まで行き、下山する人が多かったせい、さらに私達も含めて他の大学のワンゲル部も少数ですが、稜線を時折歩いていたおかげで、それなりに踏み跡があり、私達はそれを辿って大水上山まで本格的ではない程度のヤブコギで難なく到達しました。数年前丹後山に行った時、十字峡からの登山道が県境稜線に出たところに、こっち巻機山という指導標が残存しているものの、全く道など見当たらない、あるいはナルミズ沢を遡行して稜線に出たら、帰路の朝日岳方面には立派な道があるのに、反対の大烏帽子山へは全くのヤブであるのを見て、無雪期にこの辺りの稜線を歩くのはもうほとんど無理だなと思いました。
             大水上山からは当時も現在と同じようにどこから突っ込もうか悩む密ヤブで、その先藤原山近辺の稜線上に昔の家型6人用テントが張れる空間があるところで一泊して、翌日ようやく平ガ岳に到着しました。藤原山のテン場は、着くまでそんなところがあるの?と半信半疑でしたが、本当に「ポッカリ」という感じでヤブが無い空間がありました。ただ、6人用テントがギリで張れるスペースしかなく、周囲は完全に灌木のヤブ。私など「大」をしようとしてしゃがむと尻に木の枝が刺さって痛いので、木に登って用を足す始末。この時、2本の太い枝に足を乗せてしゃがむところまではいいのですが、用が済んで拭こうとして片足に体重が偏ると枝が下がってしまい、危うく自分のモノの上に落下しそうになりました。木の上で用を足すときは体重のかけ方に気をつけましょう。
             そして山に入って10日目、私達は平ガ岳を出発して丸一日かけてある頂上に着きそこでテントを張りました。夕食も済んで黄昏時、ぼんやりまったりしていると近くの森の中で、カラスの群れがギャーギャーと騒いでいます。「何だぁ〜、熊でもいるのか・・・。」などと話したせいで、1年生はかなりビビったようです。さらに暗くなってもう寝るかという頃、どこからともなくザワザワというたくさんの人がさざめいているような音が聞こえてきて、その中に笛や太鼓のような音が混ざって、まるで盆踊りか夏祭りのような楽しげな物音が聞こえてきました。もちろん近くに人家などありません。どちらを向いても人間界に帰るには2日はかかるという山の中です。
             以前に聞いたことのある私は、何気なく「あぁ、山のガヤガヤが聞こえる」と言ったのですが、すでにビビリモードの1年生はさらにビビリが強くなって、もうひとりでは外に用足しにも出られない有様、その夜はうなされていたメンバーもいたようです。おそらく、木の葉や小枝、幹などが風に揺られて擦られて音がする、それが谷間で反響したりさらに水の流れ、滝の音などが加わって、あんな楽しげな音がするんだよと説明してもビビリは治まらず、「まぁ森の妖精たちが楽しく踊ってパーティーでもしているんだと思えばメルヘンだろ!」などと余計なことを言ったらかえって怖くなってしまったようです。
            「山では不思議なことがあるんだよ」と思ってしまえばそんなに怖くはないと思うんですけどね。

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            山の不可思議体験 第1話 丹沢三峰・遭難者の声?

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              JUGEMテーマ:自然・登山・キャンプ

               

              最近「死に山 ーディアトロフ峠事件の真相ー」という何やら不吉なタイトルの本を手に入れました。
               著者はアメリカ人のドキュメンタリー作家で、冷戦時代のソ連で冬のウラル山脈にトレッキングに出かけた大学生9人全員が壮絶な遺体で見つかったという遭難事故をとり上げたものです。遭難の原因がわからず、当時から様々な憶測が飛び交い、その結果単なる遭難ではなく、そのパーティのリーダーだった学生の名前をとって事件扱いされていました。超常現象が原因と主張する人も多かったようですが、著者は事実を論理的に積み重ねて原因を追求し、ある結論に達しました。ただその結論は科学に疎い人にはまさに超常現象としか言いようがないものに思われますが。
               詳しくは本書を読んでいただくことにして、実は山では色々と不 思議なこと が起こります。皆さんも「今思えば・・・」と いう出来事に遭遇したことがあるのではないでしょうか。ということで、何回かにわたって私の遭遇した「不可思議現象」を記します。あまり怖がらずにどうぞ。

              第1話 丹沢三峰・遭難者の声?
               私は現在こんな有り様なので信じられないかもしれませんが、とりあえず生まれも育ちも東京です。出生地は渋谷区神宮前、青山学院大学正門前のかつて都交通局の路面電車、路線バスの大きな車庫があった(今は国連大学になってます)奥に数年前まであったその名も「青山病院」で生まれました。その後は高校卒業まで今では高級住宅地と言われる世田谷区で過ごしました。確かに今は億ションが立ち並ぶ「高級」な住宅地かもしれませんが、当時は私の部屋の窓から、太陽の沈むシルエットの富士山が見 えるくらい眺めがよく、とても高級とは言えないけどそれなりに住みやすいところでした。そしてなんと言っても丹沢が近い。一人で山に行くようになった高校生の頃は、最寄り駅から丹沢の玄関口、渋沢駅から大倉まで電車運賃が190円、駅からのバス代が60円なので、今で言う「ワンコイン」で大倉まで往復できたのです。そこで暇を見ては塔ノ岳を中心とした水無川流域の沢や尾根を歩いていました。
               高校一年生の6月、もうすぐ梅雨入りかという曇り空のもと、少し前に丹沢表尾根を歩いたので、次は三ッ峰の縦走だなと徐々に濃くなる霧の中、大倉尾根を登っていました。今もそうですが、当時も塔ノ岳までは人で大賑わいですが、一歩丹沢山に向かう道に入ると急に人通りがなくなって寂しくなりました。しかも霧もどんどん深くなって、そのうちには視界数メートルという有様。かつて見ていたテレビドラマの「タイムトンネル」では、一寸先も見えない霧のトンネルを抜けて過去や未来に飛び込んでいくものでしたが、そんなことを思い出しながら、「霧が晴れたら別世界だったなんてイヤだな」などと考えながら歩いていました。結構ビビっていたと思います 。
               そんな中、竜ヶ馬場に近づいた時、何の前触れもなく目の前の霧の中から小銃を抱えた兵士が続々と出てきました。一瞬、太平洋戦争当時の日本にタイムスリップしたのかと相当びっくりしましたがそんなワケもなく、自動小銃を持った自衛隊の皆さん数十名、にこやかに「こんにちは!!」と言いながら通り過ぎて行きました。彼らとすれ違ったあと、「あ〜ァびっくりした」と独り言を言いながら、丹沢山へ。正午前には三ッ峰の尾根に入り、あとは下り道だと気も楽になってグイグイと下って行きました。でもやっぱり少々ビビリが続いていたのでしょうね。
               確か高畑山辺りにさしかかった時です。道は小ピークの右側を巻いており、その巻き道に入ると薄暗くて何だか辛気くさい、妙な雰囲気の林間になって、私は「なんか気持ち悪いところだなぁ」と思いながら通りすぎようとしました。が、その時、私の右後方からなんとも気味の悪い、腹の底から絞り出すようなうめき声のような声が聞こえました。「何だ今の?!」と思いながら巻き道を終えて稜線に戻るとそこに、小さな遭難慰霊碑がありました。ビビリに加えて「気持ちワル〜!」と、もうそこからは走って下山を続けました。バス道路にでたのが14時30分、そこでやっと落ち着いてさっきの声は何だったんだろう?、ビビって幻聴でも聞いたのか?と考えても結論などあるわけもなく、まぁそん なこともあるかと思うこ とにしました。山では不思議なことがあるんだよ、とその時達観したのでした。
               昨年12月、新ハイキングの本部委員としては最後の山行として蛭ヶ岳から丹沢三ッ峰縦走という計画を一泊2日で実行しました。前夜の風のせいで蛭ヶ岳から丹沢山への稜線の木々は霧氷の花盛り。参加者の皆さんには大変喜んで頂いたのですが、私としては45年ぶりにあの場所を検証しよう、遭難慰霊碑はまだあるのかと考えていました。かなり注意深く巻き道に入るたびに周囲を観察してとりあえず慰霊碑を探したのですが、結局見つけることはできませんでした。だいぶ登山道が整備されていたのでその際に撤去されてしまったのか?と思うことにしましたが、後日友人にこの話をしたら、「実はその遭難碑の裏にはお前の名前が書いてあったんじゃないの。無事に 通り抜け たから消えたんだよ!」と言われました。「いや、そんな遭難するような場所ではないよ!というか、そんな気持ち悪いこと言うな!」とは言ったものの、例えば転落して胸部を強打、肋骨がバラバラになるくらいの衝撃で肺が潰れて、一気に肺から空気が吐き出されたら(その前に頭を打って死んでいても)あんな声が出るかも、とも思います。
               何だか時々テレビで放送するタ◯リさんの「世にも奇◯な物◯」のシナリオになりそうな話ですが、まぁ「山では不思議なことがあるんだよ」と思うことにしましょう!
              追記)「死に山」読みたい人にはお貸しします。私とご一緒する山行前に連絡してください。もしディアトロフ達も「山では不思議なことがあるんだよ」と思っていれば、あるいはこの遭難はなかったのかもしれません。
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              我 青春の山々 その9 再び蓮華温泉へ

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                蓮華温泉滞在記は、夏山編も春山編も原文は日記であるが、日記は取り止めの無い事も書いてあるので、少し形を変えて見ようと思う。

                入山のために出発したのは、昭和〇〇年3月12日(金)である。その時、母が用意してくれた列車の指定席券を無視する行為から、この滞在記は始まる。今思えば、母は山小屋の厳しい労働と苛酷な環境の中で長期間滞在する私に対して、せめても道中だけは楽に行ける様にという親心からの指定券だったのだと思う。私は列車に乗り込むと、3人の女性が座っていた席の下に潜り込んで寝てしまったのである。彼女達は私の席に足を延ばせたのだから楽であったはずであるが、「馬鹿なヤツ」だと同時に思った事であろう。それでも空気枕を借してくれたところに彼女達の誠意があったのだと思う。彼女達は塩尻で下車して行った。私は朝ぼらけの後立山連峰の雄姿に圧倒されながら、栂池高原に向って行った。

                そして下山したのは5月6日(木)であるから2ヶ月近く山の中に入っていた事になる。少し不思議なのは当時学生だった私が、学校の新年度(4月)を挟んで山小屋に居た事である。学校は進級する時、必ず履修届けを提出しなければならない。必修科目や選択科目を自ら決めて学校に提出するのだが、この難門(問)をどの様にクリアしたのかという事である。記憶は定かではないが、おそらく親友に代行させたのであろう。親友は当然の事、私に成り済まして代行するのだから、えらく迷惑な話である。私はこの様に少々、人生に対していい加減というのか、なめていたところが有ったのだろう。小生意気な青二才であった。しかし理由は兎も角、私はこうして再び蓮華温泉ロッジに入山したのである。

                標高1475mの蓮華温泉に3月中旬に入るという事は並大抵ではなかった。越後の豪雪は埼玉で見る雪からは想像も出来ない程凄ましいものである。5月の黒部立山アルペンルート開通時の雪の壁と同等、もしくはそれ以上の積雪で夏ルートは車道も山路も全てが雪の下で大糸線の平岩駅から登る事は不可能なのである。積雪期の蓮華温泉に入るのは上(天狗原)から下るのであった。栂池ヒュッテに泊まって快晴の3月15日に蓮華温泉に向った。オーバーシューズに輪カンジキを着用して歩いている時は快調なのだが、この状態は天狗原(登り)までで、ここからはスキーに履き替えての滑降である。スキー板の裏面にシールを着用して、また登り返したり、兎に角、私はスキーが下手だったので、かなりの重労働であった。やっとの思いで蓮華温泉に辿り着いた時、そこには愕然とする光景が待っていた。あの二階建ての小屋が完全に埋没していたのである。わずかに屋根上の煙を排出する部分が見える程度である。小屋の人以外に7〜8人の屈強そうな地元の男達が同行していた理由がやっと理解出来たのである。彼らは小屋を掘り起こすための作業員だったのである。

                そして私の滞在記には初日から1週間程続いた小屋掘り作業が、いかに苛酷であったかが綴られている。山歩きは慣れていたが、土木作業は不慣れだった私にとってはかなりの重労働であったが耐えられたのは、やはり若かった事に加えて山が好きだったからであろう。小屋掘り作業が終ると、路の修復である。夏道の吊り橋は昨年の秋に、外して置いたし、木製の電信柱で作った丸木橋も付近の立木に立てかけて縄で結んであった。あの電信柱が雪の重さに耐えられなくなって折れてしまうからである。

                この様に想像を絶する豪雪の中に飛び込んでしまったのであるが、楽しい事も有った。当時、温泉浴槽は小屋の外に別棟になっていて冬期は解体されていて露天になっていたので、湯舟の周りだけが巨大な釜の様に雪が融けている.よって上部から入浴出来て、単なる雪見風呂では無く4〜5mの雪の壁が周りを取り囲んでいる大きなすり鉢の様な、何とも美しい風流な形をしていた。これに毎日入れたのだから、究極の温泉体験という事である。しかしこの雪の量を見ていると本当に春が来るのだろうかと不安になった事も有った。

                日記には、3月20日に雪掘り作業員の7人が下山して、入れ替わりに9人の客が来たとか、客は登山者では無く山岳スキーヤーである事等が書かれているが、「浦和の方には春が来ているのだろうか。」という文面を見ると下界に多少の未練が有った様にも思える。小屋主と私と、むさ苦しい男が2人で小屋番をしながら、春が来る事を首を長くして待ち望んでいる姿が、イヤという程滲み出ている。更に日記には「蓮華温泉春の部の食事はけっこう美味い。」とスキーヤー客からの評判はかなり良かったと書かれているが、作っていたのは私であったから失笑せざるを得ないが、これも山小屋物語の一部という事であろう。

                客が1人も来ない日は何も作業をしないのかと言えば、とんでもない話であり、この様な時はキャンプ場近くに有る蓮華の森から夏に用意して置いた薪を小屋まで運ぶのである。これは小屋掘り作業よりも重労働であった。まずは踏み固めてソリ路を造る。このソリはかなりの大型であり2トントラック位の丈が有り、このソリに薪を満載にして、その動力は人力そのものであるから、いかに雪道を滑らせると言っても、ほぼ水平(ほんの僅かな下り勾配)に造られたソリ路であるから、ところどころで止まってしまう。勾配が急だとスピードをコントロール出来ない訳で、この相反する物理的力学は、人力にとっては苦しいもので有った。嫌になったら簡単に辞めるという状況では無かったし、仮にそんな気持ちになったとしても脱出不可能なところだったのである。幸いにして私は途中で放棄する気持ちは全く無かったが、客の無い日に、まるでギリシャ神話に登場するシジホスの様に、薪をソリで運び続ける私の姿はいかなるもので有ったか。しかし私は青春の一時期にこの様な体験が出来た事を誇りに思っている。

                そして4月16日の日記には、珍しく風流な事が書かれている。「コブシの花を採ってビンに生ける。良い匂いがする。山もやっと春の気配。小鳥の鳴き声がする。山菜の春一番は行者ニンニク。今日はその天ぷらを食う。水芭蕉の芽も出て来た。黄金湯のあやめも芽が出た。春が確実にやって来ている。毎日の重労働が嘘の様だ。乗鞍沢の斜面に頭を出した蕗の薹が春告げ草の二番であった。」4月19日(月)晴。「野うさぎが力いっぱい走り回った跡が有る。自分も糸魚川(市)へ下る。9時20分、小屋出発。平岩駅12時15分着。平岩は桜が満開。糸魚川駅で小屋主のお爺さんの出迎え。床屋に行った。そして翌日は野菜と果物、その他を背負って糸魚川駅を6時30分に出発した。荷物の重さは40圈」と日記に書いて有る。「親の原からリフトに乗る。入山時、あれ程有った豪雪がほとんど無い。水が流れている。下界はもうすっかり春なのだ。リフトを降りて天狗原まで歩く。1時間50分掛かっている。20分程休んで弥兵沢を下る。誰も居ない。小屋着が1時35分。すぐに風呂に入る。この日は泊り客が無かったので夕食はすき焼きにした。デザートはイチゴ。」この日記を見ると案外なものを食べていた事になる。「そして昨日(糸魚川より)埼玉の実家に電話した。」でこの日の日記は終っている。4月24日は糸魚川から小屋主のお爺さんが登って来るために天狗原まで1人で迎えに行った事が書かれている。「8時小屋出発、天狗の庭9時ジャスト、大池を越えて天狗原への下降点9時55分。誰も居ない。大池も真っ白。大池小屋の屋根が僅かに見える。山々は白。下降点で風景を見ながら呑気に歌を唄う。10時15分出発。天狗原には5分程で着く。そこから僅かに下ったところで飯を食う。(中略)S大学の小屋まで下らないところで小屋主のお爺さんと、その次男に合流。荷物を担いでスキーを持って再び天狗原へ登り帰す。そこから乗鞍沢へ入り温泉の源泉地へ出て1時20分小屋着。」私も当時は元気だった事が覗える日記である。単独で誰も居ない雪原を歩いていても不安は全く無かったのであろう。やはり若者の特権であった。

                4月も下旬になると越後の豪雪地帯にも、さすがに春が来る、と断定いる。そして行者ニンニクが採り放題だったとか、瀬戸川のスノーブリッジが消えていたとか、山の花の春一番は可憐なピンク色のカタクリで

                あるとか、鶯が鳴いている。といった記載が有る。私は当時、山に没頭していたのであろう。夏山に比べて春山は格段にに厳しかった。私の人生における指針の一つに「リトルアドベンチャー」というのが有るが、この考え方は蓮華温泉で過ごした経験によって培わされたものである。二ヶ月近く、簡単に脱出出来ない環境の中で生活する場合、例えば風邪を引いて肺炎にでもなってしまったらどうなるのか等などは、深く考えたならば実行出来ないだろう。春山編では下界からの手紙(便り)は無い。運ぶ手段が無いので仕方が無いが、この事実も今思うとよく耐えられたと思う。ラジオでは下界の春を盛んに伝えていたし、友人達もたのしくやっているのだろうと、羨ましく思っていたはずであるが、日記にその未練は全く書かれていない。意識して書かなかったのか、あるいは強がっていたのか、その記憶は無い。

                あの時、我家を出発した3月は、我、塚本村はまだ冬であった。そして帰宅した5月は緑一色の初夏であった。二ヶ月で季節の移り変わりに浦島太郎を感じた記憶が鮮明に残っている。

                そして私は平静30年の4月中旬に残雪期としては50年ぶりに蓮華温泉に行った。建物は新しく建て替えられ、そこに働くスタッフも若返っていたが、源泉近くに有る二つの露天風呂は、ほぼ当時のままであった事が嬉しかった。変ったものと言えば、紛れも無い事実がもう一つ有る。それは当時紅顔の美青年(??)であった私が今は古希を迎えるただの老いぼれ爺(じじい)になっている事である。それは真に浦島太郎そのものであった。

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