電脳登山部リーダーブログ

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    我 青春の山々 その9 再び蓮華温泉へ

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      蓮華温泉滞在記は、夏山編も春山編も原文は日記であるが、日記は取り止めの無い事も書いてあるので、少し形を変えて見ようと思う。

      入山のために出発したのは、昭和〇〇年3月12日(金)である。その時、母が用意してくれた列車の指定席券を無視する行為から、この滞在記は始まる。今思えば、母は山小屋の厳しい労働と苛酷な環境の中で長期間滞在する私に対して、せめても道中だけは楽に行ける様にという親心からの指定券だったのだと思う。私は列車に乗り込むと、3人の女性が座っていた席の下に潜り込んで寝てしまったのである。彼女達は私の席に足を延ばせたのだから楽であったはずであるが、「馬鹿なヤツ」だと同時に思った事であろう。それでも空気枕を借してくれたところに彼女達の誠意があったのだと思う。彼女達は塩尻で下車して行った。私は朝ぼらけの後立山連峰の雄姿に圧倒されながら、栂池高原に向って行った。

      そして下山したのは5月6日(木)であるから2ヶ月近く山の中に入っていた事になる。少し不思議なのは当時学生だった私が、学校の新年度(4月)を挟んで山小屋に居た事である。学校は進級する時、必ず履修届けを提出しなければならない。必修科目や選択科目を自ら決めて学校に提出するのだが、この難門(問)をどの様にクリアしたのかという事である。記憶は定かではないが、おそらく親友に代行させたのであろう。親友は当然の事、私に成り済まして代行するのだから、えらく迷惑な話である。私はこの様に少々、人生に対していい加減というのか、なめていたところが有ったのだろう。小生意気な青二才であった。しかし理由は兎も角、私はこうして再び蓮華温泉ロッジに入山したのである。

      標高1475mの蓮華温泉に3月中旬に入るという事は並大抵ではなかった。越後の豪雪は埼玉で見る雪からは想像も出来ない程凄ましいものである。5月の黒部立山アルペンルート開通時の雪の壁と同等、もしくはそれ以上の積雪で夏ルートは車道も山路も全てが雪の下で大糸線の平岩駅から登る事は不可能なのである。積雪期の蓮華温泉に入るのは上(天狗原)から下るのであった。栂池ヒュッテに泊まって快晴の3月15日に蓮華温泉に向った。オーバーシューズに輪カンジキを着用して歩いている時は快調なのだが、この状態は天狗原(登り)までで、ここからはスキーに履き替えての滑降である。スキー板の裏面にシールを着用して、また登り返したり、兎に角、私はスキーが下手だったので、かなりの重労働であった。やっとの思いで蓮華温泉に辿り着いた時、そこには愕然とする光景が待っていた。あの二階建ての小屋が完全に埋没していたのである。わずかに屋根上の煙を排出する部分が見える程度である。小屋の人以外に7〜8人の屈強そうな地元の男達が同行していた理由がやっと理解出来たのである。彼らは小屋を掘り起こすための作業員だったのである。

      そして私の滞在記には初日から1週間程続いた小屋掘り作業が、いかに苛酷であったかが綴られている。山歩きは慣れていたが、土木作業は不慣れだった私にとってはかなりの重労働であったが耐えられたのは、やはり若かった事に加えて山が好きだったからであろう。小屋掘り作業が終ると、路の修復である。夏道の吊り橋は昨年の秋に、外して置いたし、木製の電信柱で作った丸木橋も付近の立木に立てかけて縄で結んであった。あの電信柱が雪の重さに耐えられなくなって折れてしまうからである。

      この様に想像を絶する豪雪の中に飛び込んでしまったのであるが、楽しい事も有った。当時、温泉浴槽は小屋の外に別棟になっていて冬期は解体されていて露天になっていたので、湯舟の周りだけが巨大な釜の様に雪が融けている.よって上部から入浴出来て、単なる雪見風呂では無く4〜5mの雪の壁が周りを取り囲んでいる大きなすり鉢の様な、何とも美しい風流な形をしていた。これに毎日入れたのだから、究極の温泉体験という事である。しかしこの雪の量を見ていると本当に春が来るのだろうかと不安になった事も有った。

      日記には、3月20日に雪掘り作業員の7人が下山して、入れ替わりに9人の客が来たとか、客は登山者では無く山岳スキーヤーである事等が書かれているが、「浦和の方には春が来ているのだろうか。」という文面を見ると下界に多少の未練が有った様にも思える。小屋主と私と、むさ苦しい男が2人で小屋番をしながら、春が来る事を首を長くして待ち望んでいる姿が、イヤという程滲み出ている。更に日記には「蓮華温泉春の部の食事はけっこう美味い。」とスキーヤー客からの評判はかなり良かったと書かれているが、作っていたのは私であったから失笑せざるを得ないが、これも山小屋物語の一部という事であろう。

      客が1人も来ない日は何も作業をしないのかと言えば、とんでもない話であり、この様な時はキャンプ場近くに有る蓮華の森から夏に用意して置いた薪を小屋まで運ぶのである。これは小屋掘り作業よりも重労働であった。まずは踏み固めてソリ路を造る。このソリはかなりの大型であり2トントラック位の丈が有り、このソリに薪を満載にして、その動力は人力そのものであるから、いかに雪道を滑らせると言っても、ほぼ水平(ほんの僅かな下り勾配)に造られたソリ路であるから、ところどころで止まってしまう。勾配が急だとスピードをコントロール出来ない訳で、この相反する物理的力学は、人力にとっては苦しいもので有った。嫌になったら簡単に辞めるという状況では無かったし、仮にそんな気持ちになったとしても脱出不可能なところだったのである。幸いにして私は途中で放棄する気持ちは全く無かったが、客の無い日に、まるでギリシャ神話に登場するシジホスの様に、薪をソリで運び続ける私の姿はいかなるもので有ったか。しかし私は青春の一時期にこの様な体験が出来た事を誇りに思っている。

      そして4月16日の日記には、珍しく風流な事が書かれている。「コブシの花を採ってビンに生ける。良い匂いがする。山もやっと春の気配。小鳥の鳴き声がする。山菜の春一番は行者ニンニク。今日はその天ぷらを食う。水芭蕉の芽も出て来た。黄金湯のあやめも芽が出た。春が確実にやって来ている。毎日の重労働が嘘の様だ。乗鞍沢の斜面に頭を出した蕗の薹が春告げ草の二番であった。」4月19日(月)晴。「野うさぎが力いっぱい走り回った跡が有る。自分も糸魚川(市)へ下る。9時20分、小屋出発。平岩駅12時15分着。平岩は桜が満開。糸魚川駅で小屋主のお爺さんの出迎え。床屋に行った。そして翌日は野菜と果物、その他を背負って糸魚川駅を6時30分に出発した。荷物の重さは40圈」と日記に書いて有る。「親の原からリフトに乗る。入山時、あれ程有った豪雪がほとんど無い。水が流れている。下界はもうすっかり春なのだ。リフトを降りて天狗原まで歩く。1時間50分掛かっている。20分程休んで弥兵沢を下る。誰も居ない。小屋着が1時35分。すぐに風呂に入る。この日は泊り客が無かったので夕食はすき焼きにした。デザートはイチゴ。」この日記を見ると案外なものを食べていた事になる。「そして昨日(糸魚川より)埼玉の実家に電話した。」でこの日の日記は終っている。4月24日は糸魚川から小屋主のお爺さんが登って来るために天狗原まで1人で迎えに行った事が書かれている。「8時小屋出発、天狗の庭9時ジャスト、大池を越えて天狗原への下降点9時55分。誰も居ない。大池も真っ白。大池小屋の屋根が僅かに見える。山々は白。下降点で風景を見ながら呑気に歌を唄う。10時15分出発。天狗原には5分程で着く。そこから僅かに下ったところで飯を食う。(中略)S大学の小屋まで下らないところで小屋主のお爺さんと、その次男に合流。荷物を担いでスキーを持って再び天狗原へ登り帰す。そこから乗鞍沢へ入り温泉の源泉地へ出て1時20分小屋着。」私も当時は元気だった事が覗える日記である。単独で誰も居ない雪原を歩いていても不安は全く無かったのであろう。やはり若者の特権であった。

      4月も下旬になると越後の豪雪地帯にも、さすがに春が来る、と断定いる。そして行者ニンニクが採り放題だったとか、瀬戸川のスノーブリッジが消えていたとか、山の花の春一番は可憐なピンク色のカタクリで

      あるとか、鶯が鳴いている。といった記載が有る。私は当時、山に没頭していたのであろう。夏山に比べて春山は格段にに厳しかった。私の人生における指針の一つに「リトルアドベンチャー」というのが有るが、この考え方は蓮華温泉で過ごした経験によって培わされたものである。二ヶ月近く、簡単に脱出出来ない環境の中で生活する場合、例えば風邪を引いて肺炎にでもなってしまったらどうなるのか等などは、深く考えたならば実行出来ないだろう。春山編では下界からの手紙(便り)は無い。運ぶ手段が無いので仕方が無いが、この事実も今思うとよく耐えられたと思う。ラジオでは下界の春を盛んに伝えていたし、友人達もたのしくやっているのだろうと、羨ましく思っていたはずであるが、日記にその未練は全く書かれていない。意識して書かなかったのか、あるいは強がっていたのか、その記憶は無い。

      あの時、我家を出発した3月は、我、塚本村はまだ冬であった。そして帰宅した5月は緑一色の初夏であった。二ヶ月で季節の移り変わりに浦島太郎を感じた記憶が鮮明に残っている。

      そして私は平静30年の4月中旬に残雪期としては50年ぶりに蓮華温泉に行った。建物は新しく建て替えられ、そこに働くスタッフも若返っていたが、源泉近くに有る二つの露天風呂は、ほぼ当時のままであった事が嬉しかった。変ったものと言えば、紛れも無い事実がもう一つ有る。それは当時紅顔の美青年(??)であった私が今は古希を迎えるただの老いぼれ爺(じじい)になっている事である。それは真に浦島太郎そのものであった。

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        この記事に対するコメント

         若き日の素晴らしい体験、羨ましい限りです。私も学生時代、山小屋でのアルバイトを夢想したものですが、種々の事情で果たせませんでした。
         この歳になって暇を持て余すようになってバイト希望しても、体力・経験の不足で、向こうからお断りと言われるでしょうから、私の人生にそんなページを刻むのはもうムリでしょう。私は基本的に山の中にいることが好きで登山をしているようなものですから、山で生活しながら仕事するのは理想的なんです。
         タイムマシンが欲しいです。
        ゼフィルス24 | 2018/07/08 8:04 AM
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