電脳登山部リーダーブログ

ING電脳登山部リーダーたちのブログです。
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    名作の旅 その8 点の記

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      それは余りにも、あの場面に似ていた。雪渓で転倒した私は、その直下に有る岩稜帯に向って滑落してゆく。ピッケルを持っていなかったので、ただ重力の意思のまま何もする事が出来なかった。

      三浦雄一郎が1970年の5月にエベレストのサウスコル(標高、約8000m)からパラシュートを背負って、スキー滑降をした時の映像を見ると、あの時の生還は運良く急斜面に止まったからに過ぎない。滑降を始めてすぐにパラシュートを開いたが、その制動効果は、ほとんど無く加速度が増加してアイスバーン帯に突入すると、さすがの三浦でもスピードを制御する事が出来ずに転倒してしまう。そのまま滑落し続け、雪の無い岩稜帯に突入する。結果を知らないで、この映像を見たとすれば、三浦はここで死んだ様に思える場面である。すでに片方のスキー板は、外れてどこかへ飛び去っている。生死不明の三浦は更に落ちてゆく。そしてこの岩稜帯を抜けたところに新雪帯が有って、三浦の身体がここで止まる。まだ生死不明。固唾をのんで見守っていると、三浦がストックを大きく振りまわす。この場面は、どの様な名作映画よりも大きな感動を与える。幸いにして一本のスキー板が残っていたので、止まる事が出来たと三浦は言った。この事実に元米国大統領のジェームスカーターは、三浦の行動を世界一の勇者だと称えたという。

      剣岳の早月小屋(旧伝蔵小屋)前の丘に立つと、池の谷を隔てて鋭く連なる北方稜線が見える。通称マッチ箱や猫の耳と言われている特徴の有る岩峰や小窓王という、何ともロマンチックな名称の岩峰群が林立している。この領域に明日、足を踏み込むのだと思うと自然に武者震いがしてくるのは、ここが一般ルートでは無い事に加えて剣岳登山史における幾多の先人クライマー達が、その青春に命を掛け、そして競い合った歴史の舞台であるからであろう。

      剣岳の初登は、陸地測量部の柴崎芳太郎である。地元大山村の案内人、宇治長次郎らを伴っての登頂であった。厳密には偵察として若い技士、生田信と長次郎ら四人が先に登ったと言われている。その日は明治40年7月12日であったと作家の新田次郎は、小説「点の記」に書いている。そして実際に柴崎が登ったのは半月後の7月27日であったと同じく新田は推測している。柴崎は陸地測量部の役人で、剣岳山頂に三角点を埋設するために登頂を目指すが、そのルートが発見出来ずに苦悩する。当時の剣岳は信仰上の都合で登山禁止の山とされていた事もあって、その禁を犯す事は、結果的には地元に対しての挑戦でもあった。無論、柴崎には挑戦という意識は無く、あくまでも職務遂行が目的であった。登れるルートが見つからない上に重い測量機材を担いでの行動は、必然的に困難が次々に発生し、挫折しそいになるが、長次郎達がついに頂上に至るルートを発見する。そのルートは現在の長次郎谷(たん)からのものであった。ちなみに当時の行動日誌や測量機器の重量などから推測すると、一人当たりの背負った荷物の重さは60圓砲發覆襪箸いΑこの重量は現在の長次郎谷を残雪期に登ると仮定した場合、現役のガイドでも登れないという。長次郎谷上部の急峻な傾斜面を60圓了餾爐鯒愽蕕辰栃發い深萄蠱の体力は、まさに並外れた強靭なものであった事になる。

      そして柴崎は長次郎らと共に、剣岳の頂上に立った。しかし初登だと思っていたその頂上には信じられない物が有った。そこには錆びた錫杖(僧侶や修験者が持ち歩く杖)が安置されていたのである。しかもその錆び具合から推測して、その錫杖は数年前のものでは無かった。何百年か前に、すでに誰かが登っていたのである。この結果から見ると、厳密に言えば柴崎らは初登ではないが、記録が残る近代登山史という観点から言えば、私は初登と言ってもよいのではないかと思う。

      そして昭和期になると大学山岳部や社会人山岳部が、競って剣岳の岩場を開拓していった。ジャンダルム、チンネ、クレオパトラニードル等の名称は、おそらく彼らの様な若きクライマー達が、その青春に命を掛け、その一方でロマンに恋をした結果、生まれたものであろう。

      私達は早月小屋に一泊して翌日剣岳に登り、北方稜線を歩いた。あの柴崎芳太郎や宇治長次郎達が登った大雪渓(現、長次郎谷)は上から覗いただけであったが、その谷は余りにも長大で急峻で、多くの残雪で埋まっていた。今から百年以上も前に彼らが、この大雪渓を登ったと思うと、彼らの息使いが鮮明に聞こえて来る様であった。あれだけ賑わっていた剣岳山頂も、北方稜線に入った途端に登山者は皆無であった。たまにヘルメット姿の若者達とすれ違ったが、彼らは登攀を終えて頂上を目指して登って行った。この稜線に入ると、ほとんどの者が口を閉ざしてしまう。緊張の連続であったが、小窓雪渓まで来ると岩稜歩きやルートファンティングは終了する。残雪の詰まった雪渓は下の方から心地良い涼風が吹いていた。

      おそらく気が緩んだのであろう。私は小窓雪渓の上部で転倒し、そのまま滑落したのである。そして岩が小さく突起している洗濯板状の岩場に突入して、この帯を諸に滑り落ち、その下の残雪のところで偶然に止まったのである。痛いなどという感覚では無く、目の中が線香花火の様に火花が散ったようで空が何回転もしたように思えた。同行の仲間も、おそらく大怪我をして救助要請だと思った事だろう。驚きの眼差しで見守る仲間。その直後に手を振る私。人物と場所と規模は比較にならない程小さいが、真にあの場面にそっくりだったのである。しかし痛みはかなり激しかった。この事実を仲間に悟られないように行動した事が更に辛かった。この日は池の平小屋から仙人池ヒュッテまで歩いてここに泊まった。翌日は阿曽原温泉経由で祖母谷温泉まで一気に下り、山旅の汗を流した。厳しかった行程が、まるで嘘のように心地よい温泉山小屋であった。

      決して名誉のためでもなく、利のためでもなかった。陸軍参謀本部陸地測量部の柴崎芳太郎と、その部下達の行動は実に美しい。現在の様に登山ルートが無かった当時の剣岳に重さ100圓了鯵囘斥兩价譴鮹瓦、一心不乱で登る彼らの姿こそが今の登山者に失われつつある山の原点ではないだろうか。そして柴崎は言う。「人がどう評価しようとも、何をしたかではなく、何のために、それをしたかが大事です。悔いなくやり遂げることが大切だと思います。」

      私にとって未踏の地である長次郎谷。そこに残っている柴崎達の足跡は永久に消える事は無いだろう。

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      名作の旅 その7 宮本武蔵

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        武蔵は一乗寺下(さがり)松の決闘に向かう途中、とある小さな社に足を止め、闘いの勝利を祈願しようとするが、すぐに思い直す。自分の味方は他力(この場合は神仏からの庇護)ではない。死の覚悟こそが、常々の味方であり、侍の道に頼む神は無い。神仏に頼ろうとした自分の心の弱さこそが問題なのだと自覚する。ここに武蔵は「我(われ)神仏を尊び、されど頼らず。」と悟ったのである。

        この心境は私の登山に於いても共通するものが有ると思われる。登山の場合も偶像としての神仏は存在するが、実像としては「山」そのものであり、言い換えれば「大自然」という事になる。大自然は時として様々な試練を私達人間に与えてくるが、この巨大な力に対しては到底、太刀打ち出来るものではない。だから私達は、大自然の中で遊ばせてもらっている事を自覚して、彼らの怒りに触れないように努力しながら登山を楽しむ事になる。よって人為的な事故である転落や滑落、更には身体に起こる異変(病気)等による遭難は全て自己責任という形で処理する事になる。

        私は3000m級の稜線を歩いている時、よく、殺気のような気配を感じる事がある。まわりを見廻しても私に危害を加えようとしている者は無論居ない。これは果して何なのだろうと思う。数年前に私が、奥穂高から西穂高まで縦走した時の事である。馬の背と呼ばれているナイフリッジを越えて、ロバの耳のトラバース地点に差し掛かった時、何とも言えない得体の知れない震えに襲われたのである。落ちれば奈落の底へ一直線の地形では有ったが滑落に対しての恐怖感では無かった。これに対応する目的で、このルートに足を踏み入れたのであるから単純な恐怖感では無い。人間(ひと)は、よく「山を征服した。」とか「あの山をやっつけた。」等と、いとも簡単に言っているが、大自然の脅威は、それほど生易しいものでは無く「たまたま、その山に登れた。」にすぎないのだろうと私は思う。言い換えると巨大な自然界の中で、極めてちっぽけな私達人間は遊ばせてもらっているだけに過ぎないのではないだろうか。私が大自然の中で時々感じる殺気の様な気配は、私に対して大自然からの忠告(あるいは警告)の様に思えてならない。そうだとすれば、山を歩き続けている限り、いつ、その洗礼を受けるとも限らない訳で、必然的に私は常に謙虚な姿勢で行動する事になる。大自然を尊び、時として与えられる試練には、自己責任を持って対応する姿勢こそが、登山道(哲学としての道)の本質だと思う。滑落や転落は防ぐ事が出来るが、不可抗力が常に存在しているのが大自然の中である。上部からの落石を防ぐ事は出来ないし、運が悪ければ、この落石に遭遇する事になり、これが神々の気まぐれ行為だと短絡に結論つける事は少々早計であろう。なぜならば、大自然は人間に対して常に警告を発し続け、気をつける様、呼びかけているからである。私はこれが決して武者震いでもなければ、恐怖感でもない、あの「殺気の様な感覚」なのだと思う。絶対に太刀打ち出来ない巨大な相手に対しての「尊敬の念」こそが「神仏を尊び、されど頼らず。」という武蔵の思いに共通する私の信念である。武蔵の言う信念の本意と私の解釈は、かなり異訳の感も有るが基本的姿勢は同じである。

        武蔵の人間像については様々な推論や意見が有るが、彼が残した書画を見る限り、その非凡さからして、剣の方もかなりの使い手だったと想像する方が素直な解釈だと私は思う。その一つに「枯木鳴鵙図」というのが有る。山水画としての評価は高いと聞いているが、私はこの絵を見て、その構図に驚愕する。枯れ木の最上部に鵙(もず、百舌又は百舌鳥とも書く)が、じっと佇(たたず)んでいる。そこに向かって一匹の小虫が一生懸命に鵙の居る上方に向かって進んでいる構図の絵である。この小虫は何のために登って行くのだろうか。直前にせまる過酷な運命を全く知らずに、前進している小虫を描く事で武蔵は何を表現したかったのか。仮に武蔵の求めた武士道の到達点が鵙の居るところだとすれば、それは何の「道」であっても絶対に到達点は無いという事なのだろうか。それとも武蔵は、この鵙の姿に小虫を見守るだけで、絶対に危害を加えないという何かを感じとっているのだろうか。私達の登山という行為も、この鵙(大自然の中)の居るところへ行こうとしている様にも思えるが、この鵙の哲学的本心は武蔵ならばいざ知らず、私のような凡人には永遠の謎である。武蔵は更に言っている。「千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす。」「我、事において後悔せず。」到達点は無いと言っている様にも思える言葉である。

         

        足数にして、十歩ほど先に、その小次郎はうつ伏せに仆れている。草の中へ、顔を横にふせ、握りしめている長剣の柄(つか)には、まだ執着の力が見える。━しかし苦しげな顔では決してない。その顔を見れば、小次郎は自己の力を挙げて、善戦したという満足がわかる。戦いに戦いきった者の顔には、すべて、この満足感があらわれるものである。そこに残念━と思い残しているような陰は少しも見当らない。武蔵は斬れ落ちている自分の渋染の鉢巻に眼を落して、肌に粟(あわ)を生じた。「生涯のうち、二度と、こういう敵と会えるかどうか」それを考えると、卒然と小次郎に対する愛情と尊敬を抱いた。同時に敵からうけた恩をも思った。剣を把(と)っての強さ━単なる闘士としては、小次郎は、自分より高いところにあった勇者に違いなかった。その為に、自分が高い者を目標になし得た事は恩である。技か天佑か。否━とはすぐいえるが、武蔵にも分らなかった。漠とした言葉のままいえば力や天佑以上のものである。小次郎が信じていたものは、技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは精神の剣であった。それだけの差でしかなかった。

        ここに私は武蔵の武芸者としての哲学を見たと思った。

        宿敵の天才児、佐々木小次郎と、あくまでも剣の道を追求する宮本武蔵。この二人が巌流島で決闘する事によって、吉川英治の「宮本武蔵」は完結するが、この決闘の後に吉川は私達山屋に対しても参考になる文章を残している。私を含めた多くの山屋が、多少の嘘も含めて登った山の自慢話に花を咲かせて得意になっている姿を見ると、吉川武蔵が最終章で言っている言葉を思い出して苦笑せざるを得なかったのである。

        「波騒(なみさい)は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚(ざこ)は歌い雑魚は踊る。けれど、誰が知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。」

        武蔵を慕い続けて流浪の旅を続けていたヒロインの三沢通(通称、お通さん)が巌流島での戦いに行く武蔵に会う場面は次の様に描かれている。

        「ただ一言、仰っしゃって下さいませ。━ つ、妻じゃと一言。」(中略)「武士の女房は、出陣にめめしゅうするものでない。笑って送ってくれい。━ これ限りかも知れぬ良人の舟出とすれば、猶更のことぞ。」そして二人は「━・・では。」「━・・では。」と同じ言葉を発しただけで別れた。その後、武蔵とお通はどの様になったのかは、この物語りには書かれていない。

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        名作の旅 その6 氷壁

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          名作の旅 その6 氷壁

           

          徳沢を少し過ぎたところの梓川に掛かる新村橋を渡り、梓川の右岸に出てパノラマコースを登り始めると前穂高東壁が間近に見えて来る。私達が歩いたのは秋の紅葉が始まりかけた頃で、朝日に輝く東壁が気高く、そして赤く輝いていた。空に雲は無く、その青色と少し紫がかった東壁の赤い色とのコントラストが余りにも美しく、悲劇の舞台になったとは到底思えなかった。

          昭和31年1月2日、岩稜会の石原国利、沢田栄介、若宮五郎の三名は前穂高東壁の冬季完登を目指していた。岩壁の途中で猛吹雪に遭遇してビバークした三人は3日の朝から登攀を再開する。山頂まであと数十mのところでトップの若山がスリップする。同時に石原と沢田は確保の態勢に入ったが、何の抵抗も無くザイルが切れて、若宮が「あっ」という叫び声を残して谷底へ転落していった。通常この様な場合、確保する二人には物理的にかなりのショックが加わるはずである。当時、主流だった麻製のザイルに対して数段優れていると言われ始めていた新製品のナイロンザイルが切断したという事は、ニュースとして大々的に取り扱われ、登山界のみならず世間からも注目を集めた遭難事故であった。

          「ザイルは果して切れたのか?」メーカー側は社内実験を公開して、その品質や強度に間違いが無い事を証明(主張)する。一方、岩稜会の方は「たった50cm程の落下(スリップ)で新品のザイルが切断した。」と反論する。世論はメーカー側の主張に傾いてゆく中で岩稜会側には更なる追い討ちがかかる。本当にスリップは50cmだったのか?、切れた場合でも宙吊りになった若山が仲間を巻き添えにしたくないという理由で自ら切断したのではないかという推論である。また、同じ状況の中で石原と沢田が自分達の生命を守るために切断したのではないのかという意見も一部には有ったという。この場合は同じ人為的切断でも世間の評価は真逆(美談と殺人)なものになってしまう。また若宮の技術未熟によりザイルが解けて転落したものを、石原と沢田がかばっているのだろうとか、気付かぬうちにザイルを踏み付けて傷をつけてしまったために、強度が落ちてしまったのではないか等、岩稜会側からすれば厳しい世論が渦を巻いていた事になる。岩稜会は「嘘をついていない」という立場からメーカーの公開実験に対して、その不備あるいは意図的に画策されたものではないかと数十年の歳月を費やして、その矛盾を追及して真実に迫ってゆく。この執念と努力の過程は、岩稜会会長、石岡繁雄著「氷壁ナイロンザイル事件の真実」に詳しく書かれている。

          メーカー側の不正を暴く事で会員の死が報われる事になるが、余りにも長い年月の経過は、その事故さえも忘れ去られていて、その本質に注目される事は遠い昔の出来事として、ほとんど無かったのである。

          槍ヶ岳北鎌尾根は、末端の千丈沢と天上沢の合流地点、つまり千天の出会いから山頂まで一気に突き上げていて、いざ取り付いてしまうと途中に緊急避難のエスケープルートは無い、真に山屋にとって至極のルートである。今でこそ天上沢支流の北鎌沢経由で北鎌のコルから上部を歩くのが主流になっているが、本来の北鎌尾根にこだわるならば、千天の出会いからという事になる。

          昭和23年の12月に、この北鎌尾根を目指す二人の男があった。彼らは北鎌から槍の穂先を経由して大キレット、北穂高、奥穂高、西穂高、。そして焼岳を最終目的とする壮大な計画を持っていた。これは現在の夏山であっても一気に縦走した場合は高い評価を得られると思われる縦走路である。

          当時の登山用具は現在のものと比べて、かなり劣悪なものであった。食料も保存食となれば、ほとんどが缶詰であったので必然的に重量も重んだが、極地法登山を極端に否定していた彼らの行動は長期行程に耐えられるだけの食料や装備の荷揚げから始まったのである。準備万端で始めた彼らの登山であったが、季節はずれの雨にたたられて衣服はバリバリに凍っていった。寒さと疲労、そしてラジウスの不調等の悪条件が重なり、二人はついに遭難する。そして昭和24年3月23日に二人の遺骸が千丈沢の四の沢出会いで発見された。

          「一月六日、フーセツ、全身硬ッテ、力(ちから)ナシ、ナントカ湯俣マデト思うモ、有元ヲ捨テルニシノビズ死ヲ決す。(中略)サイゴマデ、タタカウモイノチ、友の辺ニスツルモイノチ、共にユク(松ナミ)

          この遭難に関して、登山家であり作家でもある安川茂雄は自書「穂高に死す」の中で次のような松濤のロマンを書いている。松濤と有元は共に死亡しているので、この二人の会話は当然フィクションとして書いた事になるが、後に大きな反響を呼ぶ事になる。

          昭和24年1月1日の描写である。

          松濤は、ときおりガスの炎の怪しくなるラジウスに神経をつかいながら言った。「今日は元旦なんだし、これから先が予定どおりに行っても上高地は一月十日ころになるなあ」「うん、あとがうまくいって、十日に下山できれば大成功だろう・・・。」「ミイちゃんは、乗鞍岳に幾日に登ってくるわけ?」「十日という約束だったが、とても間に合わない・・・来れば三、四日だろうが小屋で待ちぼうけを食うことになるよ。きっと。」彼らがミイちゃんと呼んでいるのは飛騨蒲田川の新穂高温泉の留守番をしている少女、芳田美枝子のことだ。正月に三人で待ち合わせて、位ヶ原あたりでスキーをすべろうと約束をしていたのである。この夢が叶わないまま二人は遭難死する。

          作家の井上靖は自書「穂高の月」の中で初めて穂高を訪れた時の事を次の様に言っている。

          「ある晩、親しい友人数人と酒を飲んでいる時、話はたまたま月見のことに及んだ。そして観月の宴を張る候補地を幾つか挙げているうちに、一人が、それなら、いっそう涸沢小屋に登って月見をしたらどうかと言い出した。すると一人が賛成した。言い出したのは「谷川岳研究」「登山技術」等の著者である作家の安川茂雄氏で、賛成したのは「スキー入門」の著書を持つ作家、瓜生貞造氏。その他の三人は涸沢がどこにあるのかさえ知らぬ連中だった。そして、その場で山行が決定した。」

           

          その後すぐに井上は朝日新聞に「氷壁」を連載する事になったので、穂高に登らなければならなくなったと言っているが、同行の安川茂雄が、松濤明の北鎌尾根遭難事故や前穂高のザイル切断事故の詳細を話したのだろうと思われる。別々の山で発生した遭難事故を一つの物語にまとめ上げ、そこに恋愛を絡ませながら、山男の心理描写を実に上手に仕上げた山岳小説の「氷壁」を何度の読み返すうちに、浮かび上がってきたものは、山の遭難という決してハッピーエンドで終る事の無い主題の中に、人間がいかに自己中心的に生きているのかを、まざまざと表現している事であり、これがこの小説の本質だと思えてきたのである。

          新製品であるナイロンザイルは、果して切れたのかという世間の疑問に対して、結論が出ていない中での執筆に、井上は小説の中で中立的な姿勢を保っているが、山屋にとっては嬉しい、次の様な場面がある。主人公の魚津恭太はパートナーの小坂乙彦が遭難死したことで窮地に立たされていた。何が原因でザイルが切れたのかは小坂が死んでしまった以上は、その真実を知っているのは魚津と神のみである。魚津が世間の雑音に悩まされている時、魚津の勤める会社の上司である常盤大作はきっぱりと言い切る。「誰も見ていないと言うが、誰も見ていないところで嘘を言わないのが、本当に嘘を言わないという事だ。魚津とは、そういうヤツだ。」この上司、常盤大作の姿勢は、当時の上司像NO1にランクされたそうである。真に男儀を感じる上司像として描かれている。

          小説「氷壁」の主題は無論、ナイロン切断事件であるが、もう一つのドラマが存在している。それは男女四人のそれぞれの立場からの心理描写であるが、昨今の極めて貧弱な恋愛感情表現ではなく、あたかも小説の舞台となった穂高の、そのすぐのところを流れる梓川のように清くそして美しい。

          ヒロインの小坂かおるは、作家であり登山家の安川茂雄によると、松濤明が新穂高温泉で出会った芳田美枝子がモデルだと言う。安川が井上に、この事を語った事が基盤になっていると言われているが、この真偽は、平塚晶人著「二人のアキラ、美枝子の山」を読んで判断して頂きたい。

          小説「氷壁」は、「読んだ事の無い山屋は本物の山屋ではない」と言われる程の秀作である。

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          名作の旅 その5 タイムマシン

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            「常識的には自明の理と思われている、学校で習った幾何学は根本的に間違っている。数学でいう直線、つまり幅のない直線というのは実際には存在しない。数学的平面も同じ。そういったものは、単に抽象にすぎないし、縦、横、高さしかない立方体も実在しない。存在する物体は四つの次元、すなわち縦、横、高さ、そして持続の次元で延長をもっている。四つの次元があって、そのうちの三つを空間の次元、最後の一つを時間の次元と呼んでいる。時間と、空間の三次元との唯一の相違は、私達の意識が時間に添って動くということだけである。」H、Gウェルズ(1866〜1946)

            この理論に接した私は正直に言って、何の事だか全く理解出来なかった。しかし、これが、あのSFの名作「タイムマシン」の基礎になっているとの事である。

            ハーバート・ジョージ・ウェルズ作のSF「タイムマシン」は文明の進歩の果てに、やって来るだろう人類の破滅と地球の終焉を主題にしている物語であるが、このマシンで未来に行ったり、過去に戻れるという発想は多くのSF作家に多大な影響を与えたSF小説不朽の名作である。

            「タイムマシン」は単なる空想小説では無く、作家のH・G・ウェルズの科学者としての理論が根底に有り、主人公の時間飛行家が紀元八十万二千七百一年先の地球に行って戻って来る物語である。そして最終章は彼がタイムマシンに乗って過去に向かい、姿を消してから地球時間で三年の歳月が経過しても戻って来ないというところで終っている。

            それは、ある年の同窓会の時の事である。同窓会と言えば、孫の自慢話、年金の受取額、そして自分自身の健康話が三大テーマとしての相場であるが、この時は更なる話題として「タイムマシン」が浮上したのである。タイムマシンが仮に存在するとしたら、これに乗るかという質問に男性陣は、ほぼ全員が50年程戻りたいと言った。これは必ずしも今の家庭に不満が有るという訳では無く、各々の夫人と出会う前に戻って別の女性と結婚したいという格好付けの願望が主流であり、その殆んどが作り話であったように思う。その一方、女性陣は「乗らない」という意見の方が圧倒的に多かった。その理由は血を分けた子供や孫の存在、つまりは母性本能からくる必然的な性の違いからのものであると思われた。

            ところが一人の女性が以外な事を言った。「私は以前、地球が突然に逆転し始めて地球全体が過去に戻ってゆくというSF映画を見た事が有りますが、皆さんはご存知ですか。そうです、昔の映画で映写機を逆転させると面白い程に画面が元に戻って行きますが、あれを地球規模に想定したSF映画です。」「それだって一種のタイムマシンでしょう。」「いや、全く違います。タイムマシンは自分一人だけが今の境遇の中から勝手に飛び出して自分勝手に都合の良い時代に戻って行きます。今の家庭も何もかも捨てて自分だけの勝手な振る舞いをしようというものだと思います。」「過去に戻るという点で、どこが違うのですか。」話題もかなり熱を帯びてきて皆が多少興奮気味になってきたのが面白かった。「地球逆転現象は私だけではなく、家族も含めて全てが過去に戻ってゆくのです。だから私の夫も子供も孫も全てが存在しないところまで戻ってしまう事になるでしょう。」彼女の言おうとしている事がやと理解出来るまでに多少の時間がかかったが、それは確かに面白い正論の様にも思えた。ただ彼女は、逆転地球丸に乗りたいという本当の理由は明かさなかった。

            時を同じくして朝日新聞の天声人語(平静23年9月28日版)がタイムマシンについて次の様な掲載をした。

            「とにかく時間の中は動けやしないさ。現在の時間からは逃げられないよ。」「そこが君の間違っている点だ。」SFの巨人ウェルズの短編タイムマシン。橋本槙矩訳、岩波文庫から引いた。発表は1895年。時間旅行を神秘ではなく科学で料理した快作とされる。10年後、本物の科学が光速を越す物質は無い。時間はさかのぼれないと示すことになる。若きアインシュタインの相対性理論である。かくして夢の機械は空想の世界に封じられた。

            ところがである。ニュートリノなる素粒子が光より速いと報告された。スイスの加速器から飛ばして、イタリアの検出器に届く時間を繰り返し測ったところ、どうやっても一億分の六秒速かったという。速度では光を0、0025%上回る。本当なら、あらゆる分野で検証されてきたアインシュタインの偉業、現代物理学の土台が揺らぐ大事である。だから計測誤差とみる向きも多い。研究チームも担当者を変えて確かめるらしい。

            素粒子ニュートリノとは何であるのか。相対性理論とはいかなる理論なのか、無論私には解からない。この疑問に関して多少、解かり易い説明の記事があった。今ニュートリノの速度の是非が大きな話題になっている証拠であろう。

            「1905年に発表され、さまざまな観測で正しいと考えられてきたアインシュタインの特殊相対性理論に、ほころびがあるかも知れないからだ。特殊相対性理論?電車に乗ってボールを投げたとしよう。するとボールの速度は電車の速度とボールを投げた速度の足し算になる。それはそうだわ。ところが光だと止まっている電車からの光も、動いている電車からの光も速度は同じ。足し算は出来ないんだ。???常識に反する結果だけど観測事実だからしょうがない。これを光速不変というけど、アインシュタインは、この事実を出発点に、時間と空間に関する新しい理論を組み立てた。これが特殊相対性理論だ。ホホウ。だが、この理論で光速不変を守ろうとすると、不思議なことが起きる。運動している物体では時計の進みが遅れるというのだ。実際に私達が電車や車に乗っている時も、本当にごくわずかだが時計は遅れている。この性質を使うと、未来に行くタイムマシンは理論的には可能だ。光速の90%で飛ぶロケットに積まれた時計は、地上の時計が1秒進む間に0、44秒しか進まない。1秒に対して0、44秒?うん。

            地球に双子の兄弟がいて、兄がそのロケットで何十年も宇宙旅行をしてきたとすると、出迎えた弟はおじいさんになっているのに、兄は中年のままという事が可能だ。時計の進みが遅いぶん、兄は年を取らない?その通り。こんなロケットは簡単には造れないと思うが、理論上はそうだ。じゃあ過去へも?特殊相対性理論によると、光より速く運動するものは無いが、万一、そういうものが有れば、理論上は未来から過去に進むと解釈される。すると過去に戻ったり、過去に情報を送ったりするタイムマシンへの期待感が出てくる。わくわくするね。」朝日新聞、平成23年10月9日刊より。

            今、話題のニュートリノなる物質(?)が仮に光より速いとなれば、単にSF小説の中に閉じ込められてしまったウェルズのタイムマシンの理論は正しい可能性も出て来る事になる。

            ここで話は私達もタイムマシンに乗って再び同窓会の席に戻る。50年ぶりの同窓会は正直に言って、顔と名前が一致しない者同士が沢山居て、極端な場合は先生と生徒の区別がつかない場合もある。爺さん、婆さんたちが若き日を懐かしみながら話が盛り上がってゆく事に罪は無いが、余り当てにならない年寄りの自慢話は、かなりの割引率を持ってお互いに対応する事になる。定番のタイムマシンの話は現実逃避願望が主目的だとしても、これはこれで面白い。

            では、「お前はタイムマシンでどこまで遡りたいのか?」この質問に私は躊躇なく答える。「昭和45年6月16日、中央本線新宿行きの急行アルプス号の列車の中」であると。

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            名作の旅 その4 強力伝

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              名作の旅 その4 強力伝

               

              収容人数が1,000人を越えると言われている巨大な山小屋が山頂に建つ白馬岳、お花畑と大雪渓、その中腹には美しい池と、絶え間なく湧き出ている温泉が存在する人気の山である。

              標高が3、000mに近い事と美しい容姿に誘われて夏の白馬岳を訪れる登山者は多い。その山頂に立って、山座同定に興する登山者がぐるりと囲んでいるのが風景指示盤である。この表面には白馬岳から見える多くの山々の名前が刻まれていて、そこに立つ登山者が、それぞれの思いの中で山名を同定して楽しんでいる。

              しかし、この風景指示盤に生命(いのち)を掛けた三人の男の友情物語を知っている登山者は以外に少ないようである。

              「昭和16年も、厳しい夏になったばかりの時、石田は、ふと新聞紙上に、無理に作ったような笑顔でいる小宮の写真を見て、びっくりした。記事によると小宮は白馬山頂に山の方向を示す風景指示盤という巨石を背負って登るというのであった。地元を探してもこの巨石を背負い上げる程の者が無く、結局、富士山一の名強力、小宮がその役を引き受けることになったらしい。

              石田は、その記事の中に五十貫近くある花崗岩二個とあるのを見て、これは到底人間業ではないと思った。」

              五十貫という重量は、単純計算で(3,75kg×50)187,5圓任△襦私が学生だった頃アルバイト(ボッカ)で背負った重量は70圓任△襦E時のプロのボッカは30貫(112,5圈砲亙慎い巴瓦い任い燭噺世錣譴討い襪、これが50貫となれば並大抵のことではない。

              富士山の測候所に勤務していた石田(若き日の新田次郎本人と思われる)は、測候所の荷揚げに従事していた小宮の並はずれた体力と、その金太郎の生まれ変わりのような性格をよく知っていたために、小宮が新聞社の後援という、この事業に飛びついた背景は、それなりに理解出来たので小宮にとっても願ったりかなったりのイベントになるし、新聞社にも大きな特ダネ(話題性が大きい)になる。しかし石田はこの重量に危険を感じて小宮に中止するように進言するが、小宮は石田の忠告を無視してこの作業に取り掛かる。

              小宮が登ろうとしているルートは、大雪渓からのものであった。起点の猿倉から白馬岳山頂までは約7km、標高差は実に1、700m、そして万年雪が詰まっている大雪渓は2km、ここを180坩幣紊發△訐个鯒愽蕕辰禿个觧は、どう考えても人間業ではない。

              その一方で私は小宮の気持ちが解からないでもない。私には強力としての馬力は全く無いが、有名人や実績の有る登山家と共に何度か山に登っているし、その山頂での記念写真は持ち歩いてこそいないが宝物のように保管している。実際にも私は今までに6人のエベレストサミッターと山行を共にしているが、この実績は確かに嬉しいものである。

              小宮が私と違うところは、その栄光のために身体を賭けたという事であろう。厳冬期の雪山を登る者や何百mもの岩壁を登る者は、おそらく命を賭けている武者修行の武士と共通の哲学を持っているのだと思う。宮本武蔵のような武芸者は、どのような相手と対戦する時も常に死を覚悟していたという。山で遭難してはならないと一般常識的には言われているが、それは初心者の無謀や無知から発生する事故に対しての助言や忠告であって、本気で山に取り組んでいる者は、おそらく命を賭けた武芸者と同じ心境なのだと思う。だから、より厳しい場所を求めて挑んでゆくのだろう。それ故に前者と後者を混同してはいけないのだと私は思う。小宮も同様に武士のような心境で白馬岳に挑んでいった。

              「小宮が白馬別館の奥の一室に旅装を解いていると麓の部落、信濃四谷の鹿野という者です。と言って面会を求めて来た男があった。四角い顎(あご)の張った顔で、じっとしていると眠ったように細い目をしているが、何かの折々にその細い瞼の奥から鋭い鎌のような光を投げる男だった。ただ私があなたの案内をするという意味だけのことを言って、後は小宮のカッタツにしゃべりまくるのを黙って聞いていた。男は帰る時、「では明日案内致しますが富士山とは少し違いますので・・・」そう言って振り返りもせずに帰って行った。」

              地元の強力である鹿野にとって、よそ者に縄張りを荒らされる事は屈辱であろう。しかし、その一方で「先祖代々力持ちにかけては近隣どころか、山向こうの越中にも、ひけを取らぬ麓の部落でさえも手を上げた程の巨石を、なんぼ富士山の強力衆が力強いとしても無理に決まっている、・・・駄目だろう。」と初めはタカをくくっていた。

              引き受けておきながら途中で挫折をした場合は初めから引き受けない事よりも、恥をかく事になるので、「ザマア見ろ」という気持ちが鹿野の心の中に存在していたのである。妬み、ひがみ、嫉みは世の常である。鹿野が仮に真から冷酷な男ならば物語はここで終る。しかし鹿野は足柄山の金時の生まれ変わりのような男の小宮正作にじょじょに魅かれてゆく。真に男の友情の芽生えである。そして鹿野は、ついに大町アイゼンと、牛殺しという木で造られている大型の背負子を無償提供する事になる。友情段階はまだ心の問題であるが、この時点で鹿野は小宮に対して運命共同体になった事を自覚するのであった。

              この背負子を初めて見た時の小宮が驚きの余り、愕然とする場面は次の様に表現されている。

              「木は何ですか鹿野さん」急に鋭くなった自分の言葉を小宮は充分承知していた。「牛殺しです。」小宮の緊張に、すぐ感じたように鹿野の声も冷淡に響く。「牛殺し?」「そうです。この地方では、この木を牛殺しと言います。ずうっと山奥に、めったにしかない成長の遅い木です。この木は鉈(なた)でさえ歯が欠けます。枯れてしまったら鋸でさえも寄せつけない程、はがねのように堅いのが、この木です。牛を一撃で倒せるということからこの名前が出たのでしょう。」

              鹿野は、この稀にみる背負子を結果的には無償提供する。すでにちっぽけな友情とか同情を超越した、ある意味で二人は一体化した運命共同体となって同じ目的のために始動していたのである。「無理だから止めろ」という石田の忠告を無視して、ついに小宮と鹿野は、この風景指示盤を白馬岳山頂に運び上げる作業に取り掛かる。しかし作業は難行苦難の連続であった。途中で落石に会い、大石を背負っていた小宮は逃げる事が出来ず、足を負傷してしまう。しかし、彼はあきらめずに登り続ける。「畜生め、なんでえ、なんのために、こんな石で、この苦労をするずらか、人間がさ、人がよう・・」鹿野は樽のように、ふくれ上がった足にゲートルを巻き、怪我の手当ても、ろくにしないで、ただ、むきになって石と争う小宮の姿こそ、清潔な意欲の極致、これこそ強力の魂ではないかと思った。そして、この稀に見る、おそらく信州にも、もちろん越中にもいないだろう日本一の強力を、むざむざ、ここで死なせたくないと思った。」

              しかし鹿野も、もう小宮を止める事は出来ず、二人は巨石を運び続ける。

              武士同士が敵前逃亡出来ないのと同様に、富士山の強力は、白馬岳において、もはや、その作業を中止する事は出来なかったのである。小宮は中止しない。鹿野も止めさせる事が出来ない。そうだとすれば、全てを完了させる事だけが小宮を救う唯一の方法だったのである。

              私は火花が飛び散る、凄い場面だと思う。これ以上の男の戦いが有るだろうか。武士同士の真剣勝負は一瞬のうちに決まる。しかし小宮が戦っている相手は他人ではなく、もう一人の自分自身なのだ。この自分自身と戦うということは、どちらが勝っても、それは死を意味する壮絶な戦いである。

              そして小宮と鹿野はついに、この巨石を白馬岳山頂に運び上げる。「その石を持ち上げた小宮が、その輝かしい最後に少しも嬉しそうな顔をしないで、無表情な顔で風に打たれていたとは殆んど知る人がいないに違いない。祝賀会が行われた山頂で、巨石との戦いが終った小宮は英雄として、大勢の人の賛辞を受けたにもかかわらず、少しも、うれしそうな顔をしていない事に気付いた鹿野は、小宮の身体に異変が起きていることに気付く。

              「ああ、見えるよ、よく見えるよ。」鹿野は富士山を頂点として小宮と鋭角に組み合わせていた視線をじょじょに解きながら、ずらしていって、げっそり、やつれた小宮の頬に止めた。生気を失った横顔に西日を受けて小宮の表情の陰影が深い隈(くま)を作っている。樽のように太った足を開いて、半ば背をちぢこめるようにしながら、ようやく上半身をこらえている小宮の体躯(たいく)の容易ならざる態勢や離れていても、よく分かる呼吸づかいの不調、そして、あきらめに似た小宮の笑いの中に通り過ぎる死の影を発見して、鹿野は慄然(りつぜん)とした。すべて遂げられた今となっては、小宮が一日も早く足柄山へ帰りつくことこそ、生涯をこめて白馬の絶頂に残した石の存在意義を発見できる時にちがいない。山てんを吹走する風がぴたりと息をついた。富士山に固着して動かない小宮の眼差しの中に、この時こそ、はっきりと、ついぞ見たことのない溢れるばかりの郷愁の色が浮かんでいた。」でこの物語は終っている。

              その後、小宮は、やはり、この無理が祟り、間もなく亡くなったと聞いている。小宮正作は死んだが、風景指示盤は今でも白馬岳の山頂に燦然と輝いている。

              男三人だけしか登場しない「強力伝」こそ白馬岳に登りたくなる、私の一冊である。

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              名作の旅 その3 あずさ2号

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                中央本線を走る特急あずさ2号が初めて走ったのは、1966年(昭和41年)12月12日で、その時は新宿〜松本間で1日2往復、所要時間は4時間弱だった。

                そして今はあずさ号とスーパーあずさ号が1日に18往復を走っている。

                50年前と言えば私は学生であった。八ヶ岳や北アルプスに出掛ける機会が多くなり始めた頃であったが、このあずさ号に乗ったのは、やはり料金の関係から稀であった。

                特急あずさ号の名前の由来は、無論梓川であるが梓川と言えば上高地、そして上高地と言えば穂高岳を連想するが、私の記憶違いでなければ、穂高号という列車も有ったように思うが、この列車が特急だったのか急行だったのかは定かではない。

                私達山屋にとって上高地は聖地である。上高地から眺める穂高連峰の雄姿と清流梓川の美しさは格別である。だから特急あずさ号は他の路線を走る特急とは、違った親しみ易さが存在している。

                このあずさ号が信濃路を走り始めてから11年後の昭和52年に「あずさ2号」という流行歌が大ヒットした。流行歌に全く縁が無かった私も、やはり「あずさ」という響きに引かれて、どの様な歌詞なのかを調べてみると以外にも興味を引く内容であり、またこの歌にある信濃路とは一体どこなのかを推理してみたくなったのも、極めて自然の成り行きであった。

                「明日、私は旅に出ます。あなたの知らないひとと二人で、いつか、あなたと行くはずだった春浅い、信濃路へ。」

                この詩を見て私は驚愕する。詩は更に続く。「行く先々で、想い出すのは、あなたのことだとわかっています。そのさびしさが、きっと私を変えてくれると思いたいのです。」何と、この歌には主人公の女性と二人の男が登場していたのである。この様な構成の歌に出会ったのは初めてであった。「さよならは、いつまでたっても、とても言えそうにありません。私にとって、あなたは今も、まぶしいひとつの青春なんです。」という事は、この主人公の女性は、何かの理由で元彼と別れて、今、新しい彼と信濃路に出発するところである。しかも元彼の事を全く恨んでいない。むしろ今でも元彼の方に未練が有るような詩であり、「8時ちょうどの、あずさ2号で、私は、私は、あなたから旅立ちます。」となれば、まさにあずさ号は元彼への想いから決別するという悲しい列車でもある。

                この列車は具体的には信濃路の何処へ行くのだろうと更なる興味を持ち、歌詞をじっくり読んでみると興味深い内容であった。

                「都会のすみで、あなたを待って、私は季節にとり残された、そんな気持ちの中のあせりが、私を旅に誘うのでしょうか。さよならは、いつまでたっても、とても言えそうにありません。こんなかたちで、終ることしかできない私を許してください。8時ちょうどの、あずさ2号で、私は、私は、あなたから旅立ちます。」

                作詞 竜真知子  作曲 都倉俊一

                作詞者ではない私がこの物語を勝手に推測するのは越権行為かもしれないが、お許し願いたい。

                いつまでたっても元彼は彼女のところに迎えに来ない。田舎(国元)では両親が娘の年頃を心配して見合いを勧める。余り乗り気のしない彼女であったが、両親の立場も考慮して、一応、見合いに臨む。その相手は可でもなく不可でもなかったが、人柄は良さそうで、優しい人だった。彼女は見合いをした事実と8時ちょうどのあずさ2号で新しい彼と旅に出る事を知らせる。しかし、発車のベルが鳴っても元彼は現われなかった。この時点で彼女は新しい彼と出発せざるを得なかった。彼女と新しい彼は山屋ではないようなので、上高地や白馬村では少々無理があるように思う。となると行く先は安曇野である。

                そして、こんな推理に対して、たまたま偶然であったが、私の推理に対する回答が朝日新聞(平成24年9月22日)の「うたの旅人」に掲載されたのである。それは以下の通りであった。

                主人公の「私」とあずさ2号で一緒に旅をする男性。恋人が居るのに違う男性と旅に出る女性というのは悪女なのか。民放のラジオ番組にリスナーからの手紙を紹介する「愛の伝言板」に一通の投書があった。「○○君、お元気ですか。」で始まる女性からのもので、「ずっと、ほったらかしにされていた女性が恋人に三行半をつきつけ、ほかの男性と去ってゆく」という内容だった。どうせ自分のものだと、高をくくりがちな男と判断した。」女性が決断したものだという。この事実から当時20才代半ばの作詞家、竜真知子が書いた作品である。

                竜は旅先を考えた。北は演歌、南は何となく、ほのぼのとしてしまう。ならば西(原文は北西)に行きたい。そして信濃路は、青木湖だという。作詞家本人が言うのだからこれ程確かな事はないだろう。青木湖は別名を「思索の湖」というそうである。竜は更に続けている。「別離だから、いったん動き出したら、もう降りられない、大きな力で連れて行かれてしまう列車は必然的である。」と。「うたの旅人」の筆者は最後に竜に質問した。「語りかけるような、ですます調は、置き手紙を想定したものですか?仮に手紙なら元彼はこれを読んだのでしょうか。」竜は答えている。「これは手紙ではないし、仮に手紙だとしても出さないでしょう。だから歌詞のあなたは「あずさ2号」で彼女が旅立った事を永久に知ることはないでしょう。」

                作詞家本人が言った事実と私の推理は余りにも掛け離れていたが、私は早春賦の歌碑と多くの道祖神が有る安曇野が好きである。安曇野は五月が特に美しい。私の心の中の信濃路は、やはり安曇野である。

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